東北大震災の語りべ 2

地震だけならこれほどの絶望感は無かったと思います。

津波は何もかも、流し去った。過去の全てを流し去った。」

千壽子さんの家は高台「ここまでは津波は来ない。」そう信じていた。

3月11日の津波津波を呼び内陸奥地まで死者がでた。津波の引き波に全てが

持って行かれた。薬の袋があったから生き延びた。写真は無い。

しかし、「私たちは海の悪口を言う人間は一人もおりません。海は私たちに恵みを

与えてくれていたのです。私たちが気付くべきだったのです。津波で浸食された

所にはもう家は建てられません。何も考えられなくなり5日間も話をしない

人間が増えています。これからが私たちの正念場です。ボランティアの人たちも

こなくなりました。若い人たちは仕事を求めて家族と共に遠い所で生活せざるを得ません。

住める土地は高く年取ったものや所得が低いものは家も建てられません。

国は何の対策も打ち出してはいません。」国の機能がゆき詰っているのは国会中継を見れば

良く解る。

「他人ごとではないのですよ。」

東京にもいつ何が起こるかわからないので一つ頭に置いて置いて下さい。

「トイレの事を皆さんどう考えておられますか?」

兎も角新聞紙が大変に役に立つのだそうだ。この一番汚い一番つらい仕事を買って出て

下さったお寺の坊守さんに感謝しておられた。

炊事を受け持つ人は7名。伝染病が起こるのを防ぐ手段として考えられたようだ。

ブルーシートに包まれた死者の顔や身体を千壽子さんの義理の妹さんと娘さんが初めに

水で拭いてあげた。すると、浴衣が何処からともなく集まり着せてあげることが出来た。

それからは誰とは無しに率先して皆がこの死者に対しての最後の御奉公を

喜んでした。始めは陸の孤島のようで水が無い。とうぜん風呂や顔を洗うなどと言う

行為は欲しても出来なかった。

食事も成長盛りの子供、働き手の男衆、老人達に少ない分量が行き渡るように苦労した。

マカナイさん達は鍋の底をかいて口にしたそうだ。

想像を絶する中、道路だけは確保しようと男衆はガレキと絡まった網との戦いに苦戦していた。

支援物資が届いたのは2か月後であった。

今は娘さんと息子さんの住む場所に移動し仮設住宅に入っているが寒さと結露との戦いである。

サンサンの会が配るお弁当から知り合い、毎月千壽子さんを訪れることになった

ミシンプロジェクトの岐部典子さんも「是非東北を忘れないで。各人が自分の出来る事を

することをこの震災で学んだはずです。物質支援ではない、私たちが忘れてはならない

何かが被災地にはあります。是非みなさんの目で確かめて下さい。そして自分に出来る

ご支援をいただけないでしょうか?そうご老人と話をしてあげてほしい。」

私も何が出来るかを考えてみたいと思います。

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源良院さん企画でご供養の旅を考えられているようです。御意志がある方は

計画決まり次第EHCカレンダーに載りますので確認してください。