コトネ考的男女論

日本と言う国の国情や古くからのすり込み教育、アメリカからの男女平等論や、

自由主義による教育。それら全てが「これだ・・・」という決めてもなくただじわじわと

浸透してきた。

大化の改新の時のように日本と言う優しい国をまるっきり漢字文化で抑えようとした、

過激な改革をこれまた受け入れて永い間かかって神仏混合という文化に取り入れてしまった日本。

日本と言う国の特質、国民性、多少の抵抗や、日本全土に広がった単一勢力に対する、

反発すらも経験はしたがそれも良い肥やしとして得たこの日本。

2000年3000年4000年という歴史を経たと思われるかもしれないが、

この地球の歴史を見るに、アッツと言う間の出来事である。

その中で変わる事のない人として生まれ、人として育つその環境による考え方、

男女の違いと個性豊かな人々の人間ウオッチングから生まれた考察をお聞きいただきたい。

今と言う時間軸を使う考察。

かつての女の定義・・・・・・弱く、男がかばってやらなければならない存在。
              大きな労働力にはならないが、働き手を生むことが出来る。
              美しい女ならば、男からの求愛により今より良い生活も手に
              入れることが出来る。
              教養、芸事、頭の良さで男を助けることが出来る。
              女の仕事は家庭と子育てとされた。

今の女の定義・・・・・・・・男女平等により仕事をすることが出来るようになり男と対等である、
              と言う権利を持つ事が出来た。
              子供も自分の意志で堕胎することが出来る。
              世間のニーズによりより強烈な個性を身に着け、美に対する
              自己満足を得られるようになった。
              教養、芸事、頭の良さは自分の為に自分の一生において使う。
              家庭のみで仕事をしている女性と、共働きの女性が現れる。

かつての男の定義・・・・・・家族を守るために働く。良き妻を得て、家族と言う集団の長となり
              自分の城を作る。自分の労働力が家族を支える。
              常に自分に合う仕事を追い求めている。仕事によって功を得る事を
              願った。

今の男の定義・・・・・・・・女性の仕事進出による戸惑いが生じる。
              お金を持つ女性に従属するか。自分だけの世界を持ち独立するか。
              子供は可愛い、ゆえに生活費は出さなければならない。
              社会生活、家庭生活、夫婦生活の多様化により自分の場所を
              探している。

世間はどうなっているか???

「自由に貴方らしく生きなさい」  日本には自由主義の勘違いが起きている。
全てに鳥のように自由なのか?そうではない。責任と義務を実行した上の法律的な自由なのである。
「こうあらねばならない。」という束縛が全てない訳ではあるまい。
夫婦生活も「こうあらねばならない」は無い、プライバシーと言うもので守られている現在、
お互いの我が儘にヘキヘキとして悩みを持つ人は多い。その我が儘もお互いの我欲から出て居たり
独りよがりの押しつけから出ているケースは相手の精神的負担はいかなるものであろうか、
そういうケースこそ気の毒である。
現代が抱える問題は相手を思いやる心を素直にありがたいと言う心を持って受け入れない限り
解決は付かない。

男性はかなりの「夢追い人である」。妻には自分の給料の全てを渡している、何か文句があるのか?
妻は「あたりまえ」ととらえる。「私だって家事育児頑張っている。半分は私のものだ。」
「夫は疲れている私に声もかけてくれない」「手伝ってくれない」
「朝早く出ていって、夜遅く帰ってきて。」すれ違いの若い頃、そんな家庭生活は嫌。
ということで結婚しない人も増えている。

どうも、今は経済的に皆が中産階級でありお互いの家の経済が大きな要因になっているようだ。
それと、情報を鵜呑みにして信じ込んでいる。テレビで見るような安定はまずありえない。
男女論を取り上げたのは「家庭内別居」「いじめ」すべてに人間の心の通い合いが欠如している
世の中になっているからだ。
とりもどそう、感情豊かな日本と言う国、優しさあふれた家庭。愛情をたっぷり受けた子供たち。