便利さの陰に失ったもの

私は常ずねアイパットをカバンの中に持参している。

「すみません、この電車武蔵境に行きますよね?」「はい」「狛江に行くバス

武蔵境から出ていますか?」こんな時くせでアイパットを取り出し、「どちらに行きたいのですか?」

「慈恵医大の第三病院です。」インターネットから病院を呼び出す。「わー便利ですね。」

字が小さかったから大きくすると、「え〜〜〜そんなことも出来るのですか?」

隣にいたご老人が「凄いですね、そんなことも出来るんですね。近頃の人たちは、

なんて便利になった物を使っているのでしょう」「地図でどう行くか、見て見ましょう」

行き方の地図が出てくる。「ありがとうございます。」「私もアイパットを買います。」といって

その人は電車を降りて行った。

私は仕事上、アイパットは使っているが、こんなに喜ばれたこともめずらしい。

今日は息子からアイパットもワードをインストールしたらワード使用になるという

新しい情報を得た。まずはショップへ行って確かめよう。

本当に世の中便利になっている。簡単な使用情報なら理解できるがその周辺機器の話になると

少し遠慮していた、日々日進月歩、時代と便利さは変わっている。

東北ホツマの方が言っていた、3・11の時3日間電波も飛んでいなかったせいで

空が気持ちよく晴れ、空気も澄み渡っていた、その空気に神を感じたと言われた。

東京人の我々は、今の岩手の空気にも甘さや、美味しさを感じているのに、

電波のない空気なんていうものがこれから生きて行く間に感じられる瞬間があるのだろうか?

便利さの代わりに失っているものが大きいのかもしれない。