山口、般若寺へ。

昨日は台風にもかかわらず、雨にはぬれずに参拝ができました。有難い事です。


皆様は次のような伝説がある事をご存知でしょうか?
(以下はコピーにて、すみません)

今から1400年前の昔、般若姫は豊後の国(大分県)三重の郷に住む満野長者夫婦の娘として幸せに暮らしていました。その美しさは都をはじめ唐の国まで知れ渡るようになりました。
 ある時、難病に犯された姫を「やぶさめ」の神事で治した「橘豊日皇子」(後の用明天皇)と結ばれる事となり、すぐに子を授かりましたが、皇子は程なくして長い間留守にしていた都に帰らねばならなくなりました。
 皇子は「もし生まれた子が男であれば世継ぎにするので、一緒に上洛し、もし女であれば長者の家の後継ぎとするので、姫一人で上洛するように。」と言葉を残し都へと向かいました。
 程なくして「玉絵姫」と言う大変かわいい姫を授かった般若姫は、皇子の言い付け通り姫を残し旅立つのでした。
 120艘もの船と多くのお供を姫に与えた長者夫婦は、姫岳からその船団を見送りました。
 順調な旅となる筈でしたが大畠の瀬戸(山口県)にさしかかった姫の船団は大きな嵐に見舞われます。この嵐で多くのお供を亡くしてしまった姫は大変嘆き悲しまれました。何日も止まない嵐に衰弱した姫は、一寸八分の金の観音像に祈りを捧げました。すると声が聞こえます。
 「この嵐も姫の難病も、満野長者が潰した池に住んでいた金龍神の怒りである。鎮めるには姫の命を捧げるしかない・・・。」
 姫は大変悩みました。しかし、多くのお供を失い、終に決心します。
 「二度とこのようなむごい事故が起らないよう、瀬戸の守り神となります。私の亡骸は向こうに見えるあの山に葬って下さい。」
 姫はお供の制止を振り切り渦に身を投じました。
 やがて嵐は嘘のように静まり、知らせを聞いた皇子も長者夫婦も大変嘆き悲しまれました。
 遺言どおり姫の指差した神峰山にお墓が建てられ、皇子と長者は弔いの為に、姫の念持仏「金の観音像」を納め般若寺というお寺を建立しました。
 それから長者は姫の供養の為に、臼杵大分県)に祇園精舎を模した石仏群を生涯かけて作りました。(一部国宝)
 般若姫の魂は1400年経つ今も、大晦日に火の玉(龍燈)となって瀬戸より飛来し、般若寺の観音堂に帰って来ると伝えられています。
 そして般若姫は、今も変わらず瀬戸を行き来する船の「乗るべき潮路」、また般若寺に参詣する人々の「進むべき道」を示し見守り続けておられます。

この伝説ゆかりの地に伺います。
どんなことが起こりますでしょうか?