昨日の恵比寿の会
少人数の楽しい会でした。
人数が少ないのでディスカッション形式で行きましょう。ということになり、次元の話を
させて頂きました。皆さん三次元は私たちの世界、四次元は霊体の世界、位は知っていられますが
どうも二次元の絵に描いた世界のように層に分かれているとお思いだったようです。
違うんですよ。そこに現れては消えるアミーバーのようなものなのです。
あると思えば、ある。そんな世界なのです。
前にこのブログで、カタカムナのアマナの世界に手を入れて「私の手のひらに体を治す
物質集まれ」というとそれがかなう物質がヒヨヒヨと手のひらに寄って来てクライアントを
治すことができる。と書きましたが、昨日そのクライアントさんから報告があり
「ペットの画像で癌が消えていました」自分の意思で抗がん剤は使いませんとお医者様に
言いました。川島直美さんを見ても生き切った人生を美しいと思いました。というご報告です。
人それぞれのとらえ方があってよいのです。病を得るという事は私も含めて何かを
感じなくてはなりません。また、生かされているありがたさを知ることが大切です。
プロセスはどうであれ、この世に生かしていただいている、こと自体学びの時なのです。
コトネ的見解と考察8
単純に人は誰かの生と死を見て自分の生、死を感じます。身内、親近者が亡くなるとき悲しみの中に
その人の人となりと人生を感じるのです。そして、自分の死を、自分の人生として受け入れるのです。
私は物に固執するほうではありませんが、物はモノザネと言ってその人を強く語ります。
物に固執するのは生に固執することのように感じます。形見を生きているうちの誰に上げるか
決めて、整理するという風習が日本にはあります。
親が亡くなってから子供が整理することもあります、今は遺品整理をしてくれる業者がいる
そうですね。しかし故人が思い入れのあるものは、子供に整理して欲しい物ではないのでしょうか?
昔のように長男家族が生活を一緒にしていて全ての物を受け継いでくれるということが少ない
昨今です。各家族がそれぞれに分かれて住んでおりますから親が大切にしているものもいらない
と言って始末してしまうことにもなるのでしょう。マンション住まいに親の大事にしている骨董
を持ち込んでも困るし、街で聞いた会話に「母が死んだとき着物がうんざりするほど出てきたの
今こうして着付け教室に通い、着物の価値が解ってみるとあの時の着物捨てないで取っておけば
恥をかかないで済んだのにと思うのよ」まあ後の祭り。生前お母さんに聞いておくべきでしたよね、
しかし、どこに置くのでしょうね?一時預けてゆっくり形見整理をして亡くなった方を悼む、
そんな時間を取ってみましょうよ・・・