今日は多田さんの美容室プレジュールに1か月半ぶりに伺った。

若い甥御さんの話でこの前若い男性が2人若い女性が1人で「スピリチュアルの話をしたんです。」

それが「無」についてだったという。

女性はあくまでも「無」は何もない事だ。自分は「無」が怖いと、最後まで主張したそうだ。

男性が自分は「無」が好きだ。無は0ではないと主張したがどうも折り合いがつかなかったようだ。

この問答だけで1時間が過ぎたそうだ。あ〜〜〜〜残念だそこに私がいたら、

最もわかりやすい方法で無と言う概念を説明してあげたのに。こんなことを真面目に話してくれている

若者たちがいることに日本もまんざらではないと思える。


さて、コトネ式無の考察について書くことにしよう。実践はお会いするチャンスを持てた方に

お授けしよう。

コトネ的m「無」の捉え方


さて皆さんはどうお考えになるだろうか?

有も無も漢字の世界の概念である。唯物論ともなりえるだろう。

しかし、見えない酸素で人は生きている。これは、見えないがそこにあるのである。見えないから

無ではない。「無」と言うものをそのとうり「ない」と表現すると、我々人間も地球すらも

煙も残らずに存在しないのである。

宇宙は存在する、しかしこの地球にしか目が向いていない

人間には見えない=ない世界なのだ。

私はこの三次元に四次元も五次元ももっと高い次元もごちゃまぜで存在していると思っている。

そのすべての次元を往来しているものとして「無」と言われる世界の面白さを知る事が

人間の身体や、脳を知ることと同じくらい面白い事だとお伝えしておこう。

この問答から哲学が生まれ宇宙論が生まれ、心理学や量子力学が生まれ微電子物理学が

当たり前に説かれる時代が来たのだ。

見えるから有。見えないから無。と言う論議も大切だが、もう少し勉強をお互いにする時間を持つと

21世紀に置いて行かれない日本人になれると思う。

我々はもう既に切り替えなくてはならない時代に来ている。気が付いてしまったのだから、

縄文の昔既に人類が気が付いていたところぐらいは知るべきであろうと思う。

コトネのたわごととなさっても結構であるがしばし時間を止めてお考えください。

瞑想の良い題材になりますでしょう。