死とは考えてしまいました。
死を望む人。死を望まないが死と向き合わなければならない人。そして死。(始)
「人は100歳を越えると皆穏やかな人間になるそうですね。」今伺っている方の
お嬢様が83歳のお母様を看て言われる。母はからかうでもなく、楽しそうに悪態をつく。
娘さんも慣れたもので軽く受け流す。この母が嘗てご主人を63歳で失くし、うつ病になり
家族でこの母を見守ったなどとは思えないほど回復しておられる。
どこかこの親子の眼差しが優しい。しかし突然お母様が顔を両手で伏せて声をあげた。
「あ〜〜お母さん、早く私をお迎えに来て。あ〜〜〜貴方、私を早く迎えに来て。」
「どんなに頼んでも迎えに来てくれないのよ。」と悲しそうに母。
「きっと相手も怖い人には来てほしくないんですよ。」と娘さんが切り返す。
階段から落ちて体が不自由になった。家族が誰か一人は家にいて母を見ている。
こんな幸せは母にとっては当たり前だ、幸せすぎても死を望むのも人間だ。
夜にこんなメールが届いた。夜遠隔を頼んできている方がいる。
その方を是非頼むと依頼してきた方からだ。その友人からの電話で
「病院の個室に入らねばならなくなった。もう死ぬさようなら。」
と言うものであった。私も遠隔をしてみたが受け付けない。
自分でどうも生きることを拒絶したようだ。自分で全てを拒絶しても心のどこかで
人は生きることを望むものである。しかし彼女の絶望感の凄さは強すぎる。
色々な人の死に対する考えもあろうが、本当は彼女は生きて学びたいと言っていたのだ
キリスト教を学びたいと言っていた。上智大学の外部生になるために東京に出てきたのである。
思い半ばの闘病生活はつらかろうし周りの病人の様子を見ると自暴自棄にもなるだろう。
しかし、死をどう自分として捉えるのかも神様は見ておられる。受け入れなければならない
死と言うものもある。私は神父さんを知らない、もしこのブログの読者で良いキリスト教の牧師さんを
ご存知の方が居たら教えて頂けないだろうか、よろしくお願いいたします。
今は私より牧師さんとの会話をさせてあげたいのだ。